
勃発
「今ドア開けたん誰じゃ!」
ヤンキーネエちゃんが肩を怒らせてこちらにつかつかと歩み寄ってくる。
というのは私の犯したちょっとした失態に端を発するのだが、そこまで怒鳴られるほど一方的な非があるものでもない--と云ったところでこの状況は如何ともし難かった。
平成5年、23歳だった私はある日曜日、朝から草サッカーの試合に参加し、チームメイトとそのまま一日だらだらと過ごした。
一日の仕上げに行きつけの ”釣り人喫茶A” で締めるのがその頃の定番コースであったが、その店はもともと夜討ち朝駆けをする釣り人のために深夜まで営んでおり、軽食も充実して店内も広く快適なため、私は店員と馴染みになるぐらい入り浸っていた。
その日、夜も更けようという時間帯にその店に乗り込み、10人ほどのメンツでいつものように店の一角に陣取って馬鹿話に興じる処、途中で小用を催した私は店内の閑所(トイレ)に向かう。
男女兼用のそのトイレは水洗の和式である。
一つ目のドアを開けると手洗い場があり、さらに左側のドアを開けると目的の場所だ。
その、目的のドアを開ける。鍵は閉じていなかった。
ところが驚いたことには先客が居る。私は目を丸くした。
若い女性が一人、むき出しのお尻をこちらに向けて便器を跨いでいたのだ。
女性が振り向く。
目が合う。
「あ、ごめーん!」
私は慌ててドアを閉める。
席に戻り、「女の人が入っていたところを開けてしまった」旨を、己自身のうっかり失敗談として笑いながら話す私に、周りも同調して「私を」笑う。
さてトイレから出てきた女性は、昭和の雰囲気を色濃く残すスケ番然としたヤンキーネエちゃんで、こちらを睨みながズカズカと近づき、今にも暴れ出さんばかりに吠え始めた。
暴力
談笑していた我々は、女がドアを開けて出てきた瞬間、すぐに真顔を取り繕ったが遅かった。
女は足早に迫り来て
「今開けたん誰じゃッ!」
と凄んで我々の席の前で止まると、店内の和やかな空気が固まって亀裂が入り、一瞬でピリついた。
いかな生まれついての演技派である私とて、ここでしらを切るのは人道にもとることを重々承知している。
「俺やけど・・・」
渋々名乗りながらこれはまずいことになった、相手が悪かったと私はこれから始まる受難を予期して戦慄した。
女の彼氏と目される男が慌ててそばに来るが、その男は剃り込みの入った短めのリーゼントでヤンキー風を装ってはいるものの、目がくりくりっとした優しい顔立ちで、おそらくはこちらの大人数にも遠慮したものか、ただただ女の剣幕にオロオロした様子で一言も発しない。
「土下座せえッ!」
と女。
「いやごめんごめん、でもわざとやったわけではないし・・・」
「お前ら笑ろとったやないかッ!」
我々が、「私の」失敗談を笑っていたものを、女は自分が侮辱されたものと取ったらしいが、それもやむを得ざる心境であろうことは察する。
その間も女の彼氏は戸惑った表情で突っ立って居る。
生まれついての他力本願気質の私は、(ボサッしてないでなだめろよ男!)と心の叫びを送り続けるが一向に届く気配がない。
広い店内には我々の他にも老若男女20人ほどの客が居た処、一切の会話が止まり、固唾を呑んでこちらを注目している。
女性オーナーと、その娘たる顔なじみの店員も出てきたが、その、20歳過ぎほどの若い店員が女を落ち着かせようとするも、
「ババアはひっこんどれッ!」
と女が一喝する。
「バ、ババア!?」
ヤンキーネエちゃんとて同じような年頃と推察される処、ババアという思いも寄らぬ言葉を投げつけられた若い女店員が、一瞬ヤンキー以上に険しい顔つきになって目を白黒させているのを見て、私は内心可笑しく思ったのだが、当然そんなことを指摘している場合ではない。
「はよ土下座せえ!」
女は執拗に私に迫った。
生まれついての小心者気質とは云い条、この時ばかりは数的優位による己の安全性は確保されていると目し、一方で最前述べたとおり生まれついての演技派でもある私は、態度だけは落ち着き払った様相を保って崩さず、腕を前に組んだまま、
「土下座は出来んわ」
と頑なに拒絶した。
そもそも施錠していない方が悪いとは思えど、徒らに主張すれば火に油を注ぐことになりかねぬし、女は私の不承諾にも怒気を増す気配で、事態はいよいよ膠着状態に陥る格好。
生まれつきMっ気の方が強めにできている気質の私は、いっそこのまま外へ連れ出されて、土下座の上に足蹴にされて事なきを得ようという考えが一瞬頭をよぎったのだが、一方で生まれつき無駄に誇りだけ高い私は、その案を即座に却下した。
しばらく同じような押し問答が続いた処、奥まった厨房から男性店員も出てきた上は、ついに女はいったん表へ連れ出される仕儀となったがその刹那、当時現役力士であった貴闘力関もかくやと思われん女の張り手が、私の顔面を激しく打擲した。
私に一撃を喰らわせたことで最低限の気持ちは収まったらしい女は、漸く店の外へと連行された。
喝采
ところで、民衆は私の味方であった。
女が連れ出された次の瞬間、ずっと静まっていた店内から私に向けての満場の拍手が沸き起こり、
「よう我慢した!」
という喝采が飛んだ。
受難が去った安堵と、思いがけぬ出来事への満腔の喜びを湛えつつ、生まれつき調子者気質の私は立ち上がって両手を挙げ、闘い終わった勇者(ただ座って我慢していただけなのだが)の面持ちでそれに応え、店内を和やかにする格好となった。
やにわにおばちゃんが一人駆け寄ってきて「握手してください!」と嬉しそうに云うので、生まれつき人気者になりたい気質の強い私は、初優勝して故郷に凱旋した地元力士の態で、それに応じたものである。
その数年の後、私は別の店で同じように閑所のドアを開けてしまい、一悶着の騒ぎを起こすことになるのだが、当然この時点においては全く予期もしていない。