女性ものの靴を購める
今は跡形もなく青空駐車場と化した松阪駅前の一画にはかつてデパートがあり、三交百貨店という名のその店舗は閉店するまで市民の要衝であったことは紛れもないことだ。
そのデパート内の靴店で、24歳だった私は女性物の靴を物色していたのだが、それは無論自分で履くためではなない。
そうは云い条、女性物の靴に偏愛がないかと問われれば、己の心中を探るに、フェチシズム的な嗜好を携えていることを薄々気づいていながら、はっきりと自覚するまでの成熟にはまだ至っておらず、自分が買い求めたそれを自分で履き、以て精神的な昂揚を得るという、常軌を逸した行為もまだ実行できぬ頃であった。
否、其れは冗句としても、贈答品として白いミュールを選んだのはこういう靴を履いている女性が好きなのだという、まごうことなき偏執的な希求から来ていたのかもしれない。
しかし私の嗜好がどう、ということは今日の本題ではない。
とにかく私はその靴を、急いで購める必要があった。
職場への不穏な電話
昔日私が勤務していた職場に、一本の不穏な電話があったのは、その靴を手に入れる前日のことであった。
月末を明日に控えさて今日も残業かと、定時を過ぎて一息ついた頃合、前席で電話を取ったT嬢がそれを私に取り次ぐ。
まだ携帯電話がない時代であるから、プライベエトの連絡を職場に直接つなぐことが特段非常識な行為と見なされることはなかった。
果たしてその電話はK子からのものであったが、K子はその職場にかつて勤務していた同年代の女性で、私が入所したときには既に退職していたものの、職員有志のイヴェントに常々顔を出していたので、そこは若い二人のこととて自然懇ろになり、つい先頃より交際を始めたところであった。
そのK子の電話の声が恐ろしく不機嫌且つ怒りに満ちているというのは、根が過敏にできてる私でなくとも気づいたに相違ない。その日はK子の誕生日だったのだが、それまでのところ私から何の連絡もしていないことをK子は電話の向こうからなじり始めた。
実際のところ、私はK子の誕生日を忘れていた。そしてしくじりは今ここに露見した。
私はすっかりうろたえ、一瞬血の気がひいたのを自覚したが、この狼狽を悟られてはならないと努めて平静を装った。
電話を取り次いだT嬢が無関心を装いながら耳をそばだてて居るのを気にしながら私はK子に対し、忘れてなんかいないさ、しかし君もかつてこの職場にいたのなら月末の忙しいのは知っているはずじゃないか?少しはこちらの立場も考えてくれ給えよ、とこのような昭和臭香る標準語で云ったわけではないが――方言で再現するといかにも滑稽になるのでやめておこう――そのような意味のことを云ったものだ。
根が策士である私は、誕生日を忘れていたことはおくびにも出さず、仕事の忙しいことにその責任を押しつけようと必死に画策していた。
そうは云い条、そんな張りぼての論戦を敷いた私にK子はなかなか納得せず、激しい怒気を含んだ刺々しい言葉で私を罵り続け、もう別れると云って聞かない。
しばらく問答を続けていたものの、これ以上の通話は前席のT嬢どころか、職場全体にわたって私が失態を必死に弁解している構図を投射しかねない。傷口を広げる前に私はいったん退却することを決め、方便として別れることに同意した上で受話器を置いた。
その日、日付が変わる前ぐらいに帰宅した私はK子に電話し、最前の電話で存分に私を罵倒したおかげもあってか幾分毒気を抜かれた感のあるK子に和議を持ちかけた。
果たして和議は成り、明日の夜のデエトを取り付けた。
結末
さて翌日会うことを約定したからには、私が誕生日を忘れていなかったことをどうしても立証しなくてはならないことになった。
翌日午前、私は外回りの途中、件の三交百貨店に立ち寄り、例の白いミュールを購めた。
根が策士にできてる私は、前々から用意していた態でその晩それをK子に渡し、ことのほか相好を崩すK子に若干拍子抜けしつつ、策成って想定以上の成果を上げたことを心中、己自身に寿いだ。
その何か月か後K子とは別れたが、以来交際相手の誕生日は必ず覚えるようにしている。
この話は実話を元にしたフィクションです。
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