「仕事は見て盗め」の意味を仏教的見地から解いてみようと思う

読書しても実践に結びつかない悩み

若い頃は好んで読んだビジネス書の類いを、この頃は遠ざけるようになった。
読みやすさを狙った軽い文章が、読み応えなく感じてしまうのだ。

結論を端的に書いてくれているので、確かにわかりやすくはある。
ああしましょう、こうしましょうと懇切丁寧だ。

しかしこれらの親切なアドバイスが身についたためしがない。
これはもちろん、本に原因があるのではなく、読書を生かせていない自分に原因があるのだが。

そうやって身につかない経験を繰り返してきた結果、読んでいる途中で
「はいはい、そのたぐいの話ね」
と、知った風な台詞が直情的に頭の中で響き始める。
悪い癖がついてしまったものだ。



ところで、とある仏教の本に、「知識」と「智慧」の違いについて書かれていた。
割と読みやすい本なのだが、はっきり言って、この部分は説明を読んでもピンとこない。
例えばこうだ。

知識はやがて消えますが、智慧は消えません。
智慧は、主観を破った状態であらわれます。
それは、特別な「何かを得た」ことではないのです。
「なった」世界です。

『ブッダの教え一日一話』PHP研究所 より


この、「知識」と「智慧」について、ひょとしたらこういうことなのではないだろうか?

知識とは単に知っているだけのもの
智慧とは体験を通して身についたもの・・・

仕事は見て盗むのか否か

「仕事は見て盗め」とは昔からある言葉だが、近年は否定される向きも多いのかと想像する。

ノウハウさえ合理的に習得してしまえば、すぐにでも寿司屋を開店できる、修業なんて無駄、理不尽で意味が無い、といったたぐいのあれだ。
(出しゃばり豆知識:仏教の場合は「修業」ではなく「修行」である)

この考え方に、私は以前、割と賛同に近かった。
事前に教えてもらわなければ、余計な回り道によって時間を無駄に費やして非効率だし、顧客にも迷惑をかけるではないか。

この意見を、今もすべて否定はしない。
ただし、盗むことの偉大さを、近頃実感しているのである。



ここで話を「知識」と「智慧」に戻したい。
私のまとめはこうだ。

知識智慧
やがて消える     消えない      
得たものなったもの
ビジネス書ドキュメンタリー、文学 
与えられるもの自ら行うもの
受動的能動的
頭脳的肉体的
脳内世界現実世界
デジタル手書き
机上実地
教えられてする自ら行う
インプットアウトプット
暗記考察

意味合い的に、ダブっているものもあるかもしれないがご容赦を。

つまり、仕事を見て盗む方が、遠回りのようでいて実は「智慧」を獲得するのが早いのではないか。ということだ。
反対に、合理的に学んだだけのものは「知識」に過ぎない、と。


さらに言えば、人が身につけた「智慧」を教えてもらってもこれは単なる「知識」に堕ちてしまう。
ましてや人から「知識」を教わるだけであればこれはもはや伝聞であり、知識にすらならぬのではないか。

読書もまたしかり

同じことは読書にしてもいえるのではないだろうか。

自分で気づきを得た方が習得が深くて早い。
手取り足取り教えてくれるビジネス書は、単に「覚えるだけの作業」と化してしまうきらいがある。

自分で気づきを得た方が面白みがある、と私は思う。

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税理士向井栄一の
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