複式簿記断腸録〈其の壱拾壱ー11ー〉父からの長い手紙

前回までのあらすじ

税理士試験の簿記論に三年連続落ちた。

簿記を始めたのは大学一年、最初から好きになれない。
東京の生活に馴染めない、両親が離婚する、など何にやら鬱屈した日々である。
それでも二年になって日商二級を取得した。

親の心子知らず、子の心親知らず

「父は私に税理士になれといいます。でも私は嫌いです。」と(答案用紙に書かれていた)

「子の心親知らず」暑い教室で嫌々受けた税理士試験!その彼氏の前途に幸あれと祈らざるを得なかった。


税理士試験はすべて記述式で、採点も出題者自らが行うのが通例のようである。
昭和のある時期に試験委員であった某教授がその採点中、膨大な解答用紙の中の一枚に見つけた、ある受験生の訴え。

この逸話は『税理士試験に早〜く合格できるなんでも相談』なる書籍に掲載されていた。
先の記事で紹介した、今は無き「東京教育情報センター」の刊行物である。


このような思いで試験会場に来ていた受験生はどれぐらいいたのだろう。


心の奥底で引っかかるものを感じながら、それを見ないようにして、私自身も同様、父の強い勧めによって、流されるように税理士試験の道へ進んだ。

思い返してみれば父は教育熱心であった。
M県の南の果てに近い、ほぼ海と山ばかりの地域にある高校出の父は、インフェリオリティーコンプレックスを抱えていたのかも知れない。
己の望みを子である私に託したのだろう。

まずは私立中学の受験を指示されたが、勉強が厭でしょうがなかった小六の私は、何かとサボる口実を見つけてその実ガンプラばかり作って受験勉強などせず、私立中学は記念受験と相成った。

高校受験の段になると、進路希望の用紙に私が書いた無難な学校名を見て即座に否決し、進学校を指定した。
性格的にむらっ気が多く、授業を集中して聞いていられない質の私は、平素の成績が芳しくなく、高校受験も大学受験もギリギリになって漸く尻に火がつき、土壇場で滑り込むという塩梅。

ある意味一面では、父の強制のおかげで努力することができたとも云えるのだが。


その父は平成二十六年(2014年)、七十二歳で世を去った。
私が四十四歳の時である。


長い手紙

平成元年、母が家出し、離婚する仕儀となったことは既に触れた。
その折、母から長い手紙が届いたことも既に述べたとおりである。

父はその後死ぬまで鰥夫を通したが、今度はその父から長い手紙が届いた。
離婚から十ヵ月後、平成二年五月である。私は大学二年生だった。
ちょうど簿記二級に向けた準備をしていた頃である。

その手紙には、結婚から離婚に至るまでのいきさつ(これについては先の記事にてさながら芥川の『藪の中』の如しと書いた)、心情の吐露、そして一番下の妹が高校を辞めて母の居る大阪で働くと云い出したことが綴られていた。
父は何度も学校に足を運び、担任の教諭と話をしたとある。


私は父が弱みを見せるところを見慣れていなかった。
その長文の手紙を読んで漸く、何にやら家族としての親しみのようなものを、父に対して感じる次第となった。


妹も結句は家に留まり、無事高校を卒業した。

通夜の日

2014年12月某日の父の通夜には、親戚中がほとんど全員集まった。
親しい親戚はもちろん、長年会っていない親戚、顔を見ても誰だかわからぬ親戚もいて、葬儀場の控え室は満杯、賑やかな通夜となった。
これだけの親戚が一堂に会することは、もうないであろう。
写真に収めていなかったのが悔やまれる。

これは父の人柄がもたらしたものだと云える。
家庭の外では朗らかで献身的だったから、皆が駆けつけてくれた。
その二面性についてもこれまで語ってきたとおりである。

紆余曲折の後、私が最終的に税理士試験に合格するのは平成二十三年(2011年)、父が亡くなる三年前。
私の人生はいつも滑り込みだが、なんとか亡くなる前に、父も望んだ税理士になることができた。





さて、話を大学時代に戻したい。

大学二年次を終え一般教育課程の単位が取得済みとなり、いよいよ税理士試験の受験資格を得た折、とある人から「税理士という夢に向かって頑張って!」とエールを受けた。
そこで私ははたと考えてしまった。
税理士になるのは夢なのだろうか?

否、夢と云うよりは義務に近いというのが本心であった。
だからこそ試験勉強なんぞ、手っ取り早く終わらせたい。

その程度の低いモチベーションでいたため、この後手ひどい洗礼を受けることとなったのである。




(続く)


跋語

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