
前回までのあらすじ
平成五年の二十三歳時、三年連続で税理士簿記論の試験に落ちた。
簿記を始めた大学一年の平成元年春、出鼻からつまずいた。
生活環境も変わり戸惑いつつ、一年の秋に日商三級、二年の春に二級を取得。
大学三年になり受験専門校TACの税理士講座に通うことになったものの、開講直後にアイドルのイベントに参加してしまい、さらに・・・・・・。
令和七年八月(2025年)
この稿をものしている令和七年十月、その二ヶ月前に催されたとあるイヴェントを私は思い起こしている。
私が通っていたM県立M高校には、NS会という卒業生の組織がある。
そのNS会が取り行う主要な行事が、毎年夏の総会および公式同窓会であった。
元々はそれほど参加者も多くなかったようだが、十五年ほど前より、卒業年度によって幹事を持ち回りで担当する制度になったらしく、それを機に幹事と同年の卒業生が大勢参加する倣いとなったようなのである。
令和七年度においては我々平成元年(1989年)卒業生が幹事の担当なのであった。
それで、前年の令和六年秋頃よりそのLINEグループが組成され、同年卒業生約400名中の三〜四割に相当する、約150名ほどが構成員として登録する流れとなった。
グループ参加者は高校3年時の組数と旧姓による本名を名乗り、適宜発信される幹事からの連絡を確認するという塩梅式である。
しかし同学年とは云い条、全員が全員親密な関係であるはずもなく、当初はグループや同窓会の参加に対して疑心暗鬼、懐疑的な立場に拠る声も耳朶に入っていた。
かく云う己自身も、初手においては無関心であった処、各方面から参加の声や勧誘などもあり、それならばと参加の流れに相成った。
グループ参加者も日ごとに増え、徐々に盛り上がりの波が高まっていった。
そして本番を迎えた八月半ばの土曜、M駅近辺のFホテルにて催された総会および同窓会には、全体で160名ほどが参加し、そのうち約半数が同学年の卒業生であった。
いざ始まってみれば事前の心配事などは全くの杞憂で、むしろこれは生涯忘れ得ぬほど印象深い日となった。
会場においては席次が定められていたものの、私はそこに留まらずうろうろと立ち歩き、多くの参加者と久闊を叙した。
熱に浮かされたようなあの高校時代の片影を見、またいくつかあったわだかまりのようなものも思いがけず氷解し、己の中に眠って錆び付いていた何かが刺激を受けてむくむくと呼び起こされたような感覚を味わった。
何にやら己の立ち位置のようなものを再認識させられる恰好となったのである。
中でも、高校一年次のみ同学級であったK田君との邂逅は、心に刻まれる出来事のひとつとなった。
K田君とは高校時代さほど仲が良かったわけでもなく、親しく会話した覚えもほとんどない。
M県の南端に近いO市出身で、高一の時は丸坊主にめがねという朴訥なルックスであったにも係わらず、その日別テーブルに見つけたK田君は、これが意外なほどに似合いすぎる長髪で、また異常に落ち着いた雰囲気と、何にやら人格者の薫りを醸し出していた。
否、落ち着きと云えば元々落ち着いた性格で、静かなリーダータイプという感じであったやもしれぬ。
職業を尋ねれば、とある関東の県で大学教授をされているとの由である。
きっと学生に慕われ、方々からも信頼される先生なのだろうということが容易に想像された。
私は、何にやら憧れにも似た尊敬の念を抱かずには居られなかった。
その日、たった五分ほどであったが立ち話をして写真を撮り、LINEの交換をした。
散会後に写真を送るととても丁寧な返信を頂いた。
親しい友人との邂逅も楽しかったのだが、なぜかK田君とのたった五分のやりとりが印象に残っている。
そのK田君に、じつは大学時代に迷惑をかけてしまったことがある。
K田君が覚えているかどうかはわからないが。
平成三年六月(1991年)
時を戻そう。
平成三年、大学三年次のTAC受講中の頃の話である。
7月31日の本試験も迫る六月初旬、高校三年次の同級生で同じ大学に通うK本氏より電話が入った。
6月15日の土曜日、新大久保の会場にて在京同級生の集まりが催されると云う。
六月ともなればいよいよ追い込みに入り、寸暇を惜しんで勉強に身を捧げねばならぬ時期である。
しかし、土曜の夜ぐらいたまには勉強から離れて羽目を外すのも良いだらう、との甘な気持ちから、私は二つ返事で参加の返答をしてしまった。
参加者は約30名で、その中にはK田君や、同じ税理士受験生であるO田氏も居た。
(ちなみにこのO田氏とは高校時代はむしろギスギスした関係だったのだが、大学時代からなぜか急速に仲良くなった)。
会場は広めの個室でカラオケが用意されていた。
ここで私(とO田氏)は、少し羽目を外し過ぎ、トラブルの種を蒔いてしまった。
そのトラブルの芽を事前に摘み取ってくれたのがK田君だったのである。
彼はそのことを覚えているだろうか。
その日も私はK田君と特に言葉を交わすことはなかったのだが、心中感謝した。
宴の後はカラオケボックスに場所を移し、そのまま徹夜で過ごす流れとなった。
早朝、折から降り始めた豪雨の中、朝七時頃に帰室したうえはそのまま夕方五時まで眠りこけた。
当然翌月曜日のTACの授業にも身が入らず、居眠りするていたらくである。
俺は勉強していたのか
さてここまで書いたところで、何にやら勉強を全くせずに遊んでばかり居たような印象になってしまったが、さのみあらず、当時の自分なりには頑張っていた(部分もある)のである。
次稿以降ではTACでの講義や勉強の諸々について書き起こさうと思う。
(続く)
跋語
『自分以外全員他人』/西村享/ちくま文庫/令和7年10月15日(水)読了
『漱石書簡集』/夏目漱石/岩波文庫/令和7年10月18日(土)読了
『荷風になりたい〜不良老人指南〜』/倉科遼/ビッグコミックス/令和7年10月20日(月)読了
『哀しき父・椎の若葉』/葛西善蔵/講談社文芸文庫/令和7年10月22日(水)読了
