複式簿記断腸録〈其の肆ー4ー〉右と左の理由がわからない

前回までのあらすじ

私は簿記が嫌いである。
嫌いなあまり税理士試験の簿記論に三回落ちた。
なぜ嫌いになったのだろう。

平成元年
大学に入学して上京したおのぼりさんの私は、S学会というサークルに所属することとなった。
簿記を嫌悪する原因が醸成され始めようとしていた。

そんなことはわかっておるのだ

私は失望した。




「資産は左側に書いて、負債と資本は右側に書くのね」




C大学の伝統的団体、S学会の部室の黒板に、先輩であり部長でもあるT澤氏が図を書き、重々しげに説明を加えたところであった。


私は失望し、腹の中で毒づいた。

(はっ?そんなことわかっとるわ!俺が知りたいのは・・・・・・)






大学の商学部に入学した私は、六月に行われる予定の日商簿記検定(三級)を受験するべく、既に日本商工会議所発行の公式テキストを読み始めていた。

私は、初めて学ぶ簿記たるものに対峙し、早くも焦燥していた。
テキストに書いてあることが全く理解できぬことに。


平成元年のこと、令和の現在のように初学者に手取り足取り懇切丁寧に解説してくれるコンテンツはなく、無骨に公式テキストと公式ワークブックで学習を始めるのが王道であったが、独学で簿記を修めんとする初学者たる私には、この格式張った公式テキストが甚だ難解に感ぜられた。

閉ざされた異世界の言語のような 、”借方・貸方” なる用語もさることながら、私の脳をきりきりと締め付けるのは、その独特のルールであった。

すなわち、「資産」の増加は借方(左側)に記入し、減少は貸方(右側)に記入。
「負債」はその逆で、増加すれば今度は貸方(右側)、減少すれば借方(左側)に記録する。

さてここまでのルールについては素直に納得できる。資産と負債が反対の概念であろうことが素人でも推察できるからである。

しかし解せぬのは「費用」たるものもまた、「資産」と同じように増加は左、減少は右に、というルールである。
これが私を混乱させた。

「資産」と言われれば何やらプラスのイメージを想起させるが、「費用」となるとこれは出金であるからマイナスのイメージではないか。
なぜプラスのイメージのものとマイナスのイメージのものに同じルールが適用されるのか・・・・・・。

更に云うなら、「収入」の増加は右、減少は左。
これは「資産」とは逆なのだ。
「資産」も「収入」も、あれば嬉しいプラスのイメージではないか。なぜプラスのイメージたる両者が逆の動きをするのだ?

これらは初学者なら抱くであろう至極当然の疑問ではないのか・・・・・・?

しかしテキストを繰り返し読んでもそのことが一言も解説されておらぬではないか!



私はテキストの初めの方で躓いて先に進めず、何んとか理解しようともがく度に脳が熱くなり、夜毎眠れず輾転反側した。
この疑問が解消されぬ限りは簿記の世界に入り込めず、その先の公認会計士あるいは税理士試験受験も全くおぼつかぬとの思念に支配され始めていた。
更にこのままでは寝不足で健康を損ない、検定受検どころか夢想していた薔薇色の学生生活がほど遠くなるであろう。


そんな矢先である。
S学会の ”簿記ゼミ” にて部長直々に簿記の講義をしてくれると云うではないか。

俺が・・・・・・俺ひとりが莫迦なのか!

私はその講義に望みを懸けていた。
きっと疑問は解消されるであろうと大いに期待を抱いて臨んだ。
そしてその期待を大いに裏切り失望の沼に私を叩き落としたのが、最前の

「資産は左に書いて、負債と資本は右に書くのね」

というT澤氏の解説(?)であった。
(T澤氏の名誉のために云っておくと、この方はとてもいい人ではあったのだが)


テキストを薄くなぞっただけのその説明を聞く初学者の一年生数人も、何の疑問も引っかかりもないような顔で素直に受け入れているように見える。
皆わかっているのだろうか?
否、わかったふりをしているのか?
なぜここで疑問に思わないのだ?
ここで引っかかる俺ひとりがおかしいのか?
俺ひとりが莫迦なのか?
もしそうなら、ああ、俺はインフェリオリティーコンプレックスに苛まれねばならぬ!



私は「なぜ」が知りたいのだ。
「なぜそうなるのか」
それを知らねば一歩も先に進めぬ仕儀へと陥っていた。
その「なぜ」を公式テキストも先輩も説明してくれぬし、その場にいた他の一年生部員の誰もが、おそらくわかっていなかったに相違ない。
ただテキストにそう書いてあり、そのようにルールが決められているからそうしているだけなのだ。

しかし根が慎ましやかな上にも慎ましやかにできてる私は、皆が聞き流しているところを己の些末な探究心に拘泥し、先輩様の話を遮った上には他の全員を混乱させて講義の進行を妨げるであろう質問を、気軽に投げかけるだけの図々しさを持ち合わせなかった。

とは云い条、仮令質問して回答を得たとて己に理解する力があったのか・・・・・・否、その前に己の抱く疑問を理路整然と伝えることができたのか・・・・・・それは甚だ怪しい。

そして苦痛の種は宿りぬ

結句この疑問は、その後も長らく解決されることはなく、その三年後に税理士試験の「財務諸表論」という科目を履修するにあたって漸く氷解するのだが、それまでは丸暗記でやり過ごす恰好と相成った。


私は簿記にスムーズに入ることに失敗した。
税理士試験合格者においては、はなの初めに簿記の面白さに嵌まり、その勢いでステップアップしていったという話を数多聞く。
私と云えばすぐにでも簿記を辞めたいという全く相反する暗澹たる気持ちで、面白さには嵌まらず泥沼に嵌まっていた。
苦痛の源泉は第一歩めから宿り、その後も私につきまとい続け、体内の細胞中に居座り続けた。
私は簿記に対し、この先息吹かずに居られぬであろう苦手意識の萌芽を宿してしまった。



そんな鬱屈した気持ちからか、私は高校の同級生で同じ大学に来ているKT君に、ああ、非道い仕打ちをしてしまうことになる。



(続く)


跋語

◆◆最近の未知との遭遇◆◆

味浩

◆◆此の処の日乗◆◆

・ボブ・ディランの伝記映画『名もなき者』鑑賞す。作詞作曲シーンに感化されたれば、詩集を購いぬ。

・とある取材を受けたり

◆◆最近読み終えた本◆◆

令和7年1月21日以降

一私小説書きの日乗 憤怒の章/西村賢太/角川文庫 2025年1月31日読了

八つ墓村/横溝正史/角川文庫 2025年2月1日読了

獄門島/横溝正史/角川文庫 2025年2月21日読了

黒いマヨネーズ/吉田敬/幻冬舎よしもと文庫 2025年2月27日読了

芝公園六角堂跡 狂える藤澤清造の残影/西村賢太/文春文庫 2025年3月11日読了

本陣殺人事件/横溝正史/角川文庫 2025年3月17日読了


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