断捨離祭決行録

執着

昔日自転車で保育所に迎えに来た母が幼児たる私を荷台に乗せようとしたところ、母がそこに敷いてあった手拭いが無いのに気づいて云った、風で飛んで行ってしもたんかな・・・・・・の言に、私は手拭いに対する惜別の情を強く覚え、未だ思い出すと僅かにもの悲しい気持ちが想起される。

いったいに根が未練にできている私は、モノに対する執着がおそらく人一倍強く、モノを捨てられない質である。

何の因果か中年も後半にさしかかろうという齢ながら一軒家にひとり侘び住まいであるが、この一軒家にモノが溢れている。

父が亡くなって10年を経てたが遺品をほとんど処分できておらぬことや、今はもう家を出た二人の妹の持ち物など――というのは些末なことで、片付かない因は全て私の捨てられない癖にある。
さらにはその癖の因はモノに過剰な価値を、それも新しいモノよりも古いモノにより価値を見出してしまうところにあり、これでは容易に片付かぬのも自明である。



そうは云っても一方で、溢れるモノで気持ちが重くなり、心塞ぐのもまた事実。
片付けねばと思う気がかりが脳中の収容量を一定割合占め、何やら精気を吸い取られる心持ちである。


そんな鬱屈の蓄積から、此度の大断捨離を敢行するに至った。
前回の大断捨離は他所から実家に戻った平成23年であったから、実に13年ぶり開催の格好である。
片付けながら色々思う処もあり、これを書き記しておく次第である。

遂行

歳を取ると時間の経過が早く感じるというのは、過ごしてきた年数の分母が大きくなるので、相対的に時間の尺度が小さくなるということらしい。

今回の断捨離では、人生の残りの時間を意識せざるを得なかった。

本や雑誌類は5~600冊ほど、ビデオテープ(VHS)は50本ほどを処分したのだが、そのなかには永久保存と決めていた’90年代のオリンピックやサッカーW杯関連の特集雑誌などもあった。
これらが詰まった段ボール箱を開けて中身を検めたとき、はたしてこれは自分にとって価値があるのだろうか、と云う素朴と云えば素朴すぎる疑問が胸中によぎったのである。

おそらく人生の残りの時間でこれら雑誌を詳細にはぐったり、ビデオデッキを調達してきてテープを再生することもないであろう。
もうそんな暇もなければ機会も動機もないと思ったとき、これらモノの価値が急激に減退した。

そうなると多少思い入れのあるモノ達を躊躇なく手放す心持ちになり、どんどん捨てたくなるから不思議だ。

大量の本のほか、可燃不燃の廃棄物が45リットルの袋に20袋ほど、その他袋に入らないギター関連用品や油絵具類、ボロ家電などを、叔父の手を借りてゴミ処理センターまで軽トラによるピストン輸送を2回。

資源ゴミ捨て場の居丈高なジジイにムカつき、不燃物捨て場では思い出の品が無造作にかごに投げ入れられるのを見ては複雑な思いを抱き、ということもありながらとりあえずは一段落と相成った。

所感

齢54となると、幅広く情報を集めるよりもいま己の中にあるものをより深めたいという気持ち――つまり最早仕入はほどほどにして、何十年来の脳内の在庫をいかに加工して吐き出すかとの思いに至る。

脳内に堆肥のように蓄積した情報と経験の残り糟であるそれらモノたちは、廃棄処分するのが正しい供養の道であろう。

人生をすっきりとさせねばならぬ。


捨てるのは過去の否定ならぬ過去の肯定、味わい尽くしたからこそ捨てる、と己を納得させ、まだまだ捨てる余地のある室のモノどもを一人ねめている。





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