
我、入院す
すぐにこの病室まで持ってきてほしいのだ、英和辞典と桐原書店の『英語頻出問題総演習』をッ!
なぜなら解かねばならぬのだ英語の課題を。いや、自分のものではない。女子に頼まれたのだッ!
私は入院中の病院から、勢い込んで友人に電話していた。
23歳になったばかりの平成初めの8月、耳鼻科で診察を受けた私は手術が必要な旨を医師から告げられた。
鼻の中心を通る鼻中隔という骨が曲がって居るため鼻の通りが悪く、これを根治するためにはその鼻中隔とやらを削らねばならぬらしい。
手術と聞いて多少気持ちは陰ったが、息が通らぬ苦しさから解放されるなら是非にもとこれを予定した。
諸々の準備を整えた数日後、早朝からの手術が始まった。
椅子に座ったままの体勢で、鼻のところだけくりぬかれた被せ物を頭全体に覆う。
執刀医は軍医上がりと噂される昭和の雷親父風の古強者で、その老医師に時折怒鳴られながら鼻孔にメスを入れられ、ゴリゴリと骨を削られるのが怖いかそれとも容赦ない医師の怒号が怖いか逡巡している間に、15分ほどの手術を終えた。
術後こんなものが鼻の中に入るのかと云うような、長さ15センチほどの丸めたガーゼを両鼻に突っ込まれ、2週間の入院生活が始まった。
我、依頼に応う
入院3日目、朝の点滴を射ちに来たのがH嬢であったのだが、看護学生で夏休みのアルバイト勤務である彼女は、注射針を扱う手つきもたどたどしく、私の腕から予期せぬ鮮血がドバドバと出て止まらない。
根が神経過敏にできてる私は、肉体に針を抜き刺しされることが恐ろしく、しばしば迷走神経反射など起こして卒倒してしまうのだが、この時さほど取り乱すこともなかったというのは、入院中でされるがままにするより仕方がないという諦念の他に、ロングヘアで大人びた顔立ちのH嬢に少なからず惹かれたためでもあった。
翌日、朝の検温に来たH嬢と幾らか話ができた私は、退屈な入院生活に微かなる光明を見出し始めていた。
その日の午後、点滴が終わった後処理にH嬢が来た時には、はな二人で弾む会話が展開され、私はときめきの萌芽が宿り始めたことを確信した。
そこで彼女が切り出したことには、夏休みの英語の宿題が未だ終わっておらず、難しいから代わりにやってくれませんかとの依頼。
根が短絡的にできてる私はこれを二つ返事で受任し、最前述べた通り、携帯電話のない時代であるから病院の公衆電話から、高校時代の同級生へ電話する仕儀となったのである。
早速辞書と参考書を気の良い友人に届けてもらい、私は病室のベッドにて英語の課題に取り組んだ。受験勉強の記憶もそろそろ朧気になりつつある齢とは云い条、心弾ませつつ解答欄を埋める。
翌日、夕食後の時間にH嬢が宿題を取りに来て、代わりに御礼のドーナツを拝領した。出足から高得点を上げたであろう己の成果に満足し、これはもはや懇ろになる流れ来たると欣喜雀躍した。
と浮かれたのも束の間、勤務シフトの関係もあるのかその後H嬢が検温や点滴に廻ってくることはなくなり、しばらくして私も退院してしまった。
退院後も半年ほど通院しなければならず、日によってはH嬢が診察室にいることもあったのだが、根がジェントルマンにできてる私は衆人環視の前で堂々と声かけすること能わず、笑顔で挨拶し合う程度にとどまるのであった。
そして通院をやめてからはH嬢とは会うこともなくなった。
其れ単純なる男子、安易に女子に貢ぐ勿れ
ところで、頂き女子に大金を貢ぐ男の話は滑稽に映るが、そんなものに引っ掛かるはずがないと思っている男性諸賢も、なぜ騙されるのかという心理的メカニズムは理解できるのではないか。
例えばおねだりのプロであるキャバ嬢に、お寿司食べたあいと膝に手を乗せられ上目遣いで甘えられた上は、高級店に連れて行きトロもウニもどんだけでも食べなはれ、という仕儀に陥るというのは数多ある話であろう。
頂き女子もキャバ嬢も、スケールの大小や悪質性の濃淡はあれど、騙される男性心理のからくりは同じだと私は見る。
翻ってH嬢はどうであったのか。
多少なりとも憎からぬ思いを抱いてくれたのか若しくはうまく利用されたのか。
あの子に限ってその様な事はあるまいという心理こそ、頂かれおじさんの入り口であると自戒して筆を置くとしよう。