日本人の”あいまいさ”もなかなか捨てがたいぞ

柔道とレスリングの違い

先日、近所のラーメン屋でピリ辛チャーハンを食べたら夜中に下痢&お尻ヒリヒリ状態になったよ。

・・・そんなことはいいとして。


感覚派か論理派か?と問われれば私は感覚派に属する、という自己判定だ。

ロジカルに順序立てて考えるのがどちらかと言えば苦手で、それを引け目に感じ、克服せなあかんなあ~とずっと思ってきた。

しかし近頃は、感覚派のよいところもあるぞ。もっと押し出していこう。と思っている。

オリンピックなどの国際大会での柔道競技。
昔からルールやジャッジに一悶着ある印象だ。
2024年のパリオリンピックでも、疑惑の判定や、誤審騒ぎや、会場からのブーイングや・・・。


一方で、いつも同じ会場で、柔道終了後に行われるレスリング競技についてはそんなイメージが無い。

これはなぜだろう。

柔道は日本発祥、レスリングは古代ギリシア発祥。
というところにヒントがあるのではないか、ということを私はひとりよがりにもつかんだので、以下勝手に提唱したい。

武道からジャケットレスリングへの変質

さて柔道は、国際競技になる前はいわゆる”武道”だったのですよね?
日本人が行うところの、この○○道という来し方は、日本人の気質に密接に絡んでいると思うのである。

その日本人の気質とは、
”あいまいさを許容すること”
に他ならない。

具体的に言うと、
”お天道様が見ているから、卑怯なことはしない”
という日本人の愚直さである。

だから暗黙の了解として、勝つためだけの独りよがりな試合はしない。
技のかけ逃げ、極端な防御、もろ手刈りなどの奇襲攻撃はせず、よく言えば正々堂々、悪く言えば馬鹿正直に取り組む・・・

勝手な、独りよがりの推測だが、かけ逃げ、極端な防御、もろ手刈りなどをしてはいけない、というルールはもともとなくて、当然のごとくしなかった、のではないか?(もろ手刈りは今は反則なのかな?)


それが国際競技になるにあたり、日本人にしか通用しない”暗黙の了解”が排除されるとともに、明確なルールが定められていった。
そうするうちに、柔道はもともとの武道からはどんどんかけ離れ、”JUDO”、または”ジャケットレスリング(一部ではこう呼ばれているらしい!)”、に変質していったのではないか?



レスリングは明快に見える

翻ってレスリングであるが、これは古代ギリシアのオリンピア競技から続く種目であるとのこと。

古代ギリシアと言えば、弁論術の発祥の地、ロジカルシンキングの本家本元。

レスリングのルールはよく知らないが、オリンピックを見ていても明確、明快、公平な印象がある。柔道で起こったような観客からのブーイングも聞かれなかった。

この、もともとの発祥の違いが、同じ格闘技でありながら、柔道にはいろいろと問題が噴出している原因のように思える。

感覚派の日本人に対し、論理派の欧州人といった構図で、ルールのすりあわせがうまくいっていないような・・・。

聞くところによれば、剣道や空手はこうなることを恐れて国際化しなかったとか・・・。


オリンピック柔道は見ていて楽しいのだが、反面、日本文化が削がれて行っている感覚にもなる。これは仕方ないことなのだろうか(大相撲も近年似たような場面があるなあ・・・)。

削がれた結果が柔道のJUDO化なのか。


あいまいな日本人の気質が、近年は否定されることが多いが、これは日本文化の真髄にもつながっていると思うので、もっと見直されてもよいのではないか、と個人的には強く思っている。

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