読書の楽しさとは如何なるものか?
25歳の頃(1990年代半ば)、友人に勧められ、夢中になった本がある。
タイトルは『深夜特急』。
読むと旅に出たくなる、という。
ご多分に漏れず、私も旅に出たくなった。実行する勇気はなかったが。
この本は、著者の沢木耕太郎さんが実際に旅をしたときの記録である。
1970年代、沢木さんが20代半ばの頃の旅であり、
インドのデリーから乗り合いバスを使ってロンドンまで行くという計画で、
その前段、香港・マカオに立ち寄ったところからスタートする。
その、深夜特急の旅に出ることになった経緯や、こぼれ話、後日談などが書かれた、
『旅する力――深夜特急ノート――』
という本を最近読んだ。
かつてとても面白く読んだ『深夜特急』のこぼれ話なのだから、
これもまた興味深く読んだのはもちろんだ。
しかしそれよりも、この一冊を読んだことにより、ある一つの気づきを得られたことが収穫であった。
それは、
本を読んでどういう教訓を得るのか、
それを自分自身の頭で考えて導き出すのが楽しい、
ということである。
この本には、著者自身の行動、実際に起こったこと、そこに対する著者の考察が書かれている。
教訓めいたことや、ノウハウ的なことはいっさい書かれていない。
それがいい。
著者の具体的な行動を、読み手の側が想像力を働かせ、自分に置き換えてみる。
すると、受け身ではなく、能動的に考えることになる。
自分自身の頭を使う余地があるのだ。
受け身にならず、自分で考えて人生訓を導き出す。
読書において楽しいのはこの部分ではないだろうか。
ビジネス本を読んでも身につかないと思うに至った
昨今はたくさんのビジネス本が発刊されているばかりか、
各社いかに読みやすくするかに工夫を凝らしているように思える。
余白をとったレイアウトに、大きめのフォント、そして図がふんだんに盛り込まれている。
最初から傍線が引いてあったり、大事な部分が太字になっていたりと、
至れり尽くせりである。
しかし、
私などは、それが余計なおせっかいに感じてしまう。
思考能力を奪われ、感受性をそがれるような気がしてしまうのである。
私は気になった箇所に線を引いたり、電撃的に頭に浮かんだことをさっとメモ書きしながら本を読むので、最初から線が引いてあったり太字になっていたりすると、邪魔でしょうがない。
図解にしても、本文と同じことをわざわざ図にしているだけで、文章読解の助けになっているとは言いがたいものが多い(これは特にエ○ノミストや東○経済などのビジネス雑誌に顕著だが)。
そんな図は、集中力をそがれるだけなので私はいらない。
文章にしても、極力わかりやすいようにと平易な書き方をしているのかもしれない。
確かにすらすら読めるものの、読み応えがなく、逆に読み進めるのが苦痛にすら感じてしまう。
これまたわかりやすいようにと、内容をより詳しく説明するための具体例が挙げられていたりする。
しかしたいていは、私の心を響かせてくれない。
それは抽象・一般化したノウハウを説明するためだけの、実感のない具体例だからではないだろうか?
能楽師の野村萬斎さんが、TV番組で狂言の舞台について次のようなことをおっしゃっていた。
「受け身ではなく、主役は半分見るあなた。こちらが作ったものを押しつけるのではなく、お互い双方で作り上げる。」
すべてを説明しすぎないこと、受け手側に考える余地を残しておくことが、読書にも通ずる要諦なのではないか、と思う。
教科書的な一般論よりも著者の試行錯誤から読み取れるもの
と、偉そうなことを書いたが、かくいう私とて、
ビジネス本と呼ばれる類いのものを大量摂取してきたクチである。
しかしそれはサプリメントだけで栄養を満たそうとすることに似ていはしまいか。
ビジネス本はあっさり結論を書いてくれている。
その分、自分で考えることをしない。
だからいくら読んでも身につかないように思う。
宣伝文句やレビューに惹かれて買っても失望することが多く、
私は、いつごろからか(40代以降?)ビジネス本を遠ざけるようになった。
「これは読書ではないなー」と思うようにもなった。
読書した1冊として数えることはできないな、と。
対してノンフィクションや、小説などの文芸はどうだろう。
「こういうときはこうだからこうしよう!」
というような親切な道しるべを、はっきりとは示してくれていない。
しかし、教科書的な一般論よりも、
著者(または主人公)の試行錯誤や感情の動き、
それも失敗やネガティブな感情の表現にこそ、私は学ぶことが多い。
ここで、元週刊プレイボーイ編集であった島地勝彦さんの言葉をお借りしたい。
ハウツー本を読むのは時間の無駄だ。〜ベストセラーになるものはあるが、パッと咲いてすぐに萎む。〜時代の風雪に耐えられるだけの内容を備えていないからだよ。
乗り移り人生相談
〜
これが正解、これが正しいやり方であると言い切る本や著者を信用しない方がいい。浩瀚な文学書を何度も何度も繰り返して読んで、自分なりの人生の答えを吸い上げる。そんな読書こそ健全というものだ。
〜
つまり、読書とは人間を知ることなのだ。間違いなく人を見る目を鍛えられるし、何より人生が何倍も面白くなって愉しめる。
あらためて、
著者の具体的な行動の記録や、感じたことを読んで、読み手の方が自ら答えを探す。
自分の経験と照らし合わせて、考えて結論を導き出すことこそが読書の楽しみであると、
私は主張したい。