威張るおじさんはお好きですか?
もう20年以上前の話であるが・・・。
当時勤務していた税理士事務所へ、税務調査が入った。
調査官は50代ぐらいの男性一人、黒縁のめがね。
調査当日、事務所の玄関から入ってきたその調査官は、
少し前かがみで両手をポケットに突っ込んだまま、独り言をブツブツつぶやきながら、ズカズカと入ってきたのを私はよく覚えている。
挨拶もなく、事務所内をなめるように見回し、
おまえら覚悟しとけよ、と言わんばかりの態度であった。
無論、職員の間でなんだあの態度は?という話になった。
私自身も強く反感を覚えた。
別室で調査が続く中、私が呼び出された。
私は当時、勤務先の所長やお客さんとバンド活動をやっていて、土日に事務所ビル内の一室で練習していた。
そこで振る舞った軽食か何かを必要経費にしているのではないか?というのがおそらく焦点のようだった。
私はバンド練習の日について、リハーサルを略して「リハ」と、卓上カレンダーにメモ書きしていた。
それを見ながら調査官は、その日はどうだったのかこうだったのかと、私に質問した。
もう何カ月も前の話なので、私は細かいことを覚えていなかった。
その細かすぎる質問と、威圧的な態度に私はムッときて、
「そんなのいちいち覚えてませんよッ!」
と反抗的に調査官に返した(若気の至り)。
調査官は、私の言葉が明らかに気に入らなかったらしく、目を丸くし、
「覚えてないことはないだろうッ!」
とTVドラマで詰問する刑事のように半分怒鳴った。
その後どうだったかは覚えていないが、
まあそんなことがあったのだ。
さて、
ここで読者諸賢に問おう。
「威張るおじさんは好きですか?」
大多数が否なのではないだろうか。
私は無論、否である。
なぜおじさんは威張るのか
私の提唱する「威張るおじさん」の醸成要素は次の通りである。
己が何者かを証明し終わった人。
そのうえで、新たに証明しようと努力しない人(証明は疲れる、時間がかかる、つまりコストがかかるから)。
若き青年が、なぜ「威張るおじさん」に変貌してしまうのか?
おじさんとて若手の頃は何者でもなく、世間はもちろん職場でも自分のポテンシャルを知るものは少ない。
そして、己が何者かを証明するために日々頑張る。
行動で証明する過程が必要だったのだ。
そして青年がおじさんとなりー
おじさんは、
頑張って己自身を証明してきた。
地位を築き上げてきた。
頑張った、偉くなった。
認めてもらえた。
ただし、己の所属するコミュニティでは、という前提条件付きなので、
自分のことを知られてないコミュニティにおいては、いったん”俺は偉いんだ”を忘れて、新たに証明し直さねばならぬ。
その証明をサボってしまい、ついつい今までの関係性を他の人々にも強いてしまう・・・
というのが私の「威張るおじさん」に対する仮説だ。
清朝にみる威張るおじさんの行く末
NHK『3か月でマスターする世界史』を楽しく見ている。
番組内で興味深い考察が紹介されていたので少し引用しよう。
(時は大航海時代の後、それまでアジアはヨーロッパより豊かで進んでいた、という前提で)
3か月でマスターする世界史
清は自分たちの帝国=世界である、普遍的な世界だという世界観(コスモロジー)を持っていた。
自分たちの世界の外側で起こっている新しい変化を受け止めるのは難しかった。
自分たちの世界がすべてだと思っていれば、新しい考え方の体系が向こう側にあるということに、なかなか想像力がおよびにくい。そうすると、表面的な改革ができても社会のあり方とか考え方とかコスモロジーまで変えるような変化は起こりにくい。
私はこれを視聴して、清=威張るおじさんだ、と結びついたのである。
読者諸賢はご存じであろう。清国の行く末がどうであったかを。
○○ハラスメントと糾弾される前に歴史に学ぼうではないか!