幼児だった僕は保母の折檻を逃れようと画策したが・・・

なぜ私は折檻され続けていたのか

その日私はパンツを引き剥がされたうえに四つん這いにされ、おそらくは20〜30代であろう女性から罵倒されながら平手で尻を打ち据えられていたのである。


そう云うことをされて大変喜ぶ大人がいることはもちろん承知しているし、己の心中を正直に吐露すればこの私とて其の実嫌いではない。
そうは云い条、其れは大人としての趣味嗜好の話であり、期待された読者諸賢には申し訳ないが、これは私が幼児の頃の話である。

さてこれ以後は多少汚らしい話も出てくるのでお食事中の方はこの画面を閉じていただくことを慫慂する。


幼児たる私は松阪市内のH保育所に一時期通っていたのだが、担任のK林保母(昭和40年代当時は保育士という言葉は未だ無かった)に対してはひとつとて良い思い出などなく、今思い返しても鬼の姿しか想起できぬというのは、声低く常にむっつりと怒りっぽく、威圧的態度で容易に笑顔など見せぬ(あくまで私の思い出の中のイメエジである)と云うことの他に、私がほぼ毎日のようにK林保母から折檻を受けていたということが大きな理由である。

と云うのも私は物心ついても夜尿症が治らず、毎日のお昼寝の時間には必ずと云って良いほど粗相をしてしまい、その度冒頭に述べたようなパンツを引き剥がされての折檻と相成るのだった。

しかしそれとて私は無意識のうちに漏らしてしまうのだから、いくら体罰を加えたからと云って治る代物ではなく、今思えばなんと理不尽な仕置きであろうかと、根がセンチメンタルにできてる私は、幼き己に深い憐憫の情が溢れ出てくる。



そんな幼児はある日、夜尿症以上の失態を犯すことになる。

事件は現場で起きた

昔日老いた父が入院していた折、その父が少しだけウンチを粗相してしまい、「おならかなあ、と思った」ら少し出てしまった類いの主旨をどちらかといえばお気楽な口調で喋ったのを、私は情けない思いで聴いたものだ。


またはおならで無くとも、小用を足すときに下半身を脱力すれば、自然、肛門括約筋の張力も弛緩され、その刹那において多少なりとも尻穴の戸締まりが手薄になるというのは、人間という生物の構造上、やむを得ざる事象であろう。


その日幼児たる私はお腹の調子が良くなかった。
お昼寝の時間、教室の入口横の机で釈尊を護衛する仁王像よろしくむっつりとして、鋭い眼光を光らせながら威圧し続けるK林保母にトイレに行きたいですと手を挙げて後架へ行ったまでは良いが、そこで素直にウンチをすれば良いものを何故か小用だけで済まそうとしたのがしくじりだった。

私は大便器の方へは行かず、チュウリップ型の小便器の前に立つと、親戚の伯父サンに ”らっきょ” と揶揄された未発達な男児のそれを、パンツの前側だけ少し下にずらす形でチョロッと取り出し、便器に小水を注ぎ始めた。
そして先に説明した通り、放尿と同時に緩んだ尻穴から歓迎せざる消化物がほんの僅かではあるが漏出するのを抑えること能わず、漏出物は私のパンツの後ろ側の一部を濃く彩った。

幼児ながら私は何が起こったのかをはっきりと自覚し、これは是が非でも隠蔽しなければならない事実が生じてしまったことに狼狽したが、それと同時に完全犯罪を遂行するより外にこの身を護る道はないということを直感的に理解した。

しかし其の時の私は、焦りがそうさせたのか、尻とパンツをまずは拭く、という行為が最善の道であることに思いが至らず、誠に短絡的な妄挙に出てしまった。

私の計略は、K林保母に後ろ姿を視られなければ事が済む、という浅はかな策であった。

後架を出て廊下から教室へ、透明なガラスが填め込まれた木造の引き戸を開けて入るのだが、閉めるときには後ろ向きにならねばならないのでK林保母に後ろ姿を視られるからこれをせず、すなわち開けたまま閉めることをせずにそのまま自分に割り当てられた寝床に素早く潜り込めばよい。

もはやそれ以外に選択肢はないと自身を追い込んだ私は、計画通りに事を実行し、戸を開け放ったまま寝床へ直進したが、K林保母の、間髪を入れずに発した

閉めていきなさい

との無情なる一言に犯罪の糸口が捕まれた思いがして、私は幼児ながら ”終わった” と心中つぶやき、すでにルウチインと化した折檻への自動的な流れに身を任せるより他のない運命を呪った。

絶望感に打ちのめされつつ、これから起こるであろう悲劇を想像して心身とも萎縮しきりながらも、根が策士である私は、せめて一所懸命さだけでもアピイルしようと、いかにも頑張っている風情を装いながら後ろ向きになって引き戸を締めにかかったその刹那、

なんやそれは?

とK林保母は、行きと帰りで彩りの異なってしまった私のパンツの後部を視て、刺すような口調で詰問し、すぐさま審判が下された。
完全犯罪は破れ、罪は私に降りかかる。
有罪そして制裁、罪と罰、

その先のことは覚えていない。

終章

事件からどれ程の日数を経た頃かは覚えていないが、私の両親は教育方針を変更したのか又それとも夜尿症が治らぬのを不憫に思ったのか、結句、私はH保育所を罷り出で、私立U村幼稚園に入園した。

U村幼稚園さくら組担任のA木先生を想起するに、一所懸命で明るく優しい笑顔が思い浮かぶ。私の受難の時代は終わった。




U村幼稚園ではお昼寝の時間もなく、私は幼稚園生活を心置きなく存分に楽しんだものである。




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