
前回までのあらすじ
平成三、四、五年と、三年連続で税理士簿記論の試験に落ちた。
大学一年で始めた簿記はずっと嫌いで苦の種だったが、諸事象によりその苦痛と向き合う流れとなった。
大学三年から受験専門校TACの税理士講座、超短期コースに通い始めるが、簿記の泥沼に嵌まり始めていた。
「風邪をひいています」←知らんわ
当時のTACは水道橋駅の西を流れる日本橋川沿いのビルにあった。
私が簿記論と共に受講していたもう一方の科目である「財務諸表論」の講義は、そのTACの最上階の、縦長の教室で行われていた。
簿記論の教室より若干狭めで、受講者数も簿記論ほどは多くない。
その教室での、未だに忘れられぬ出来事がある。
ある初夏の日の授業、教室が蒸し風呂のように暑かった。
担当講師もしきりと「暑いですね」と繰り返している。
教室後方にあるエアコンのスイッチを、休憩時間に確認してみた。
すると、何度だかは忘れたが、これでは教室も冷えぬであろうという程の高い温度に設定されており、見るとスイッチの上に大きめの付箋が貼られ、何か書かれている。
文言はこうだ。
「風邪をひいています。本試験は暑いですよ」
どうやら風邪をひいた受講生の一人(文字からすると女性)が、独断でエアコンの設定温度を上げると共に、このような注意書きを付箋に書き付けて貼っていたようなのである。
私は目を疑った。
怒りを通り越して呆れ果て、付箋の主の人間性を疑った。
初夏のこの時期に、流行ってもいない風邪をひいたのは己が自己管理を怠ったせいであり、その責任は自分で負うべきであろう。
まずは他の人に染さぬよう、講義は休んで後日資料をもらうなりして対処し、どうしても出席するなら感染対策(このようなワードは当時は一般的ではなかったが)を怠りなくし、かつ厚着して冷房対策するなど、己自身がいろいろ我慢せねばならんのではないか。
それをせず、己の体調管理失念の尻拭いとして他人に我慢を強いるとはこれ如何に?
他人を犠牲にして厭わぬその感性が全く以て受け入れがたい。
付箋たった一枚での
「風邪をひいています(だからおまえら、わかってるやろな? 温度下げんなよコラ)」
と云う厚かましき言外の圧力、これはもはや示威行為に近い。
しかも
「本試験は暑いですよ」
と来た。
ずいぶん上からではないか。
当時は本試験会場には冷房がなく、真夏の暑い日に暑い部屋で試験が行われていたことに相違は無いが、そんなことは税理士受験生なら全員皆目承知なのである。
もしかしたら付箋の主は、他の受講生が「本試験は暑い」ことを知らないとでも思っているのであろうか。
否、知ってはいるがその知り方が甘いので、自分が一肌脱いで蒙を啓いてやろうと思っているのだろうか。
余計なお世話ここに極まれりである。
本試験が暑いからと云って、なぜ授業まで暑い教室で受けなければならないのだ。
本試験の二時間は人生を懸けた集中力と火事場の馬鹿力で暑さなど気にしている余裕などはないのだ。
鬼クソ集中した本試験の二時間と、じっくり授業を受ける六時間(三時間×2コマ)を誰が等価に考えられようか。
またこの付箋を見て、「そうか、本試験は暑いのだから今日から蒸し風呂のように暑い部屋に缶詰になって汗だくで勉強しよう」などと奇特な行動に出る者がいるのだろうか。
こちとら涼しい教室で快適に勉強したいし、その方が捗るに決まっているのである。
二科目が苦しい
そのような胸くそ悪いこともありながら講義を受け続けていた財務諸表論であったが、六月の半ばまでは二科目受験の意思を崩さずにいたものの、いよいよ限界を感じていた。
簿記論だけでも授業について行くことができておらず、二科目受験はさすがに無理があることに、六月下旬になって漸く気づいたのであった。
簿記論と財務諸表論の二科目は、その内容の類似性や関連性から同時受験が効率良しとされていた。
試験を甘く見ていた私は、その話を鵜呑みにして最も手っ取り早い方法で受験をクリアしようと、浅薄で無謀な計画を立ててしまった。
そしてこの超短期コースから合格者が出るかどうか、合格しても一人か二人だろう、とのまことしやかな噂も耳朶に入ってきた。
遅すぎる決断
六月下旬のある日、財務諸表論の授業の日であったが、三十分ほど朝寝坊をしてしまった。
急いで家を出ようとしたのだが、折悪く大雨が降り出した。
そこで何か気持ちがふっつりと切れてしまい、その日の授業に行くのをやめた。
それをきっかけに、なし崩し的に財務諸表論への受講意欲が減衰してしまった。
七月に入り、遂に財務諸表論の受験はあきらめて簿記論一本に絞ることに決めた。
遅すぎる決断であった。
(続く)
