序章
ごきげんよう、ここのところ原因不明の下痢が続いている胃腸デリケート税理士の向井です。
さてその日は晴れていましたでしょうか。
いや雨だったのか、それとも曇天だったのか・・・。
今から36年前―――1987年 10月23日から26日の4日間、私は九州に滞在しておりました。
九州では雨は1日だけでしたが、事件がその日に起こったのかどうかまでは確たる記憶がございません。
M県M市のM高等学校の生徒だった私は―――余談ですが、”学生”とは正しくは大学生を指し、高校生は”生徒”というのが本来の呼称でございます―――生徒だった私は、その4日間、修学旅行という名の、青くさく充満しきったエネルギーの発露の旅の真最中だったのでございます。
高校2年生当時の私は、この53年間の人生全てを振り返っても、間違いなくもっとも調子に乗った1年を過ごしておりました。お調子者の莫迦とは私のことでございます。誰が見てもそう呼んだに違いありません。
思い起こせば、この浮かれた1年の始まりは、4月にまでさかのぼります。
バス遠足の車内のカラオケにて、小林旭の『熱き心に』を熱唱し始めたまではいいが、途中で音程を見失い、80年代ティーンエイジャーの心を占拠していたヘヴィメタル、そのヘヴィメタル調に、とっさにヘヴィメタル調のシャウトに切り替えて、いわばやぶれかぶれで喚いたあげくに私は歌を終えたのでした。
音程を見失ったことを正面から受け入れず、恥ずかしさを隠すための、己の弱さを秘匿する隠れ蓑としての、いわばパフォーマンスでもありましたが、どうしたことか同級生から讃辞を持って受け入れられ、私は自由と解放感を得たのでした。
私、一皮むける
記憶はありませんが、M県M市から長崎へ向かう長い電車の旅の中で、何らかの”お尻”がネタになっていたのか?
なぜかその旅においては”お尻”がキーワードになっていました。
一泊目の宿泊、長崎センチュリーホテルの夜、
当然のこと、各部屋には若きエネルギーが今にも爆発せんとばかりに充満していたことでしょう。
同室だったクラス室長のM君は、雄叫びを上げながら私の名前を呼び、
「向井ちゃんッ!、ケツ出して廊下を走ろうや!!」
という、今思えば実に莫迦莫迦しい、しかし当時の私にとっては至極魅力的なオファーを提示しました。
拒絶する理由は何もありません。
私は積極的にその提案を受け入れました。
ちょうど対面の部屋が教諭陣の寝泊まりする部屋でしたが、
我々2人はジャージのお尻の部分だけを降ろした状態で、教諭に見つからないかというスリルも相まって、キャッキャ言いながら廊下を何往復かし、あたかも大事な仕事をやり遂げた労働者のように、心地よい疲労感と満足感を得て、部屋へと戻りました。
その直後、
「何やら廊下が騒がしい」
と、教諭が様子を見に部屋から出てきて、
そしてまた、部屋が隣だったU君も、外が騒がしい、何事かと、教諭よりほんのちょっと早く廊下に出てしまっていたのでした。
「静かにせえッ!」と、図らずも罪をかぶせられたU君は、我々の代わりに教諭に叱られ・・・というのは後からU君に聞いた話でございます。
そしてその勢いのまま、”お尻”というキーワードを私の心に灯したまま、旅が続きました。
その翌日か翌々日、我々の乗る西鉄バスの、明るく楽しいバスガイド嬢と私は、
なぜでしたか、話の流れで「お尻を見せる、見せない」と、バス車内での押し問答になりました。
もちろんバスは走行中で、ガイド嬢はマイクを使用されております。
「見せられるモンなら見せてみろッ!!」
マイクを通してガイド嬢は咆哮を上げました。
ガイド嬢は笑顔でしたが、あきらかに私めを挑発しておりました。
言葉の端には、
「どうせ出来るはずがない、しょうがねえなこの青くせえ男子はッ!」
と高をくくった態度と並行した、アネゴ肌の気質が垣間見えました。
ここで引き下がってはプライドが許しませぬ。
そしておもむろに座席の上に立ち上がった私は体ごと後ろ向きに反転し、ズボンと下着を一気に下ろし、17歳の汚れなき美しいおケツをもろ出しにしました。
その瞬間、私に新しい世界が開かれ、人として一皮むけました。
否、ズボンと下着の2枚、正確に言えば二皮むけたのでした。
恥ずかしさは皆無でしたが、
一方で、露出行為を恍惚感に昇華させるほどの成熟もまだ持ち合わせておらず、
それはただただ、青春のエネルギーの成せる業だったので。
ガイド嬢は私のおケツを称して「白いモノ」と形容し、
「うわあッ!!白いモノが、白いモノがァァッ!!」
と顔をそむけながら、予想外の出来事に対処しきれないときの狼狽とともに、恥じらい混じりの苦笑と絶叫を返しました。
私はまた大きな実績を残し、クラス中の大歓声を持って迎えられました(ウソ)。
終章
私の中では、もはやおケツを見せることなど普通の状態、『ドラゴンボール』の悟空が、スーパーサイヤ人の状態なのに平常心でいるような、そんな達人の域に達しておりました(意味不明)。
勢いづいた私の愚行はとどまるところを知らず、帰りのフェリーの中で、おケツを、他クラスの気の強い女子生徒に見られ、否、見られるように立ち回り、彼女から最大級の嫌悪の表情を引き出したのです。
16,7歳の女子にとっては、阿呆男子をいなすバスガイド嬢のようなアネゴ肌気質を醸成するにはまだ時間を要していたのでしょう。
人に嫌われる瞬間とはこういうものか、そしてまた、普通は人にお尻を見せてはいけないんだ・・・、みんな歓迎してくれるわけではないんだ・・・、と私は学んだものです(あたりまえです)。
全く、青春のエネルギーというものは何をしでかすかわかりません。
ただ、私は心のどこかで、この熱に浮かされたような日々にいつまでも憧れ、理想郷として追いかけ続けているような気がいたします。
さて今回のブログに関しては教訓のようなものは何もございませぬ。
ただ、36年前の――この執筆時たる2023年と同じ卯年の――1987年10月下旬のおもひでに心を馳せ、
遠い記憶の中ではしゃぐ己の愚行を餌に、言葉遊びをしてみたかっただけのことでありました。
くだらねえ、と笑っていただければ本望でございます。
(了)