むりやり自分を飾るより自然体で発信した方が刺さるのではないかという話

誰かになろうとして誰にもなれなかった男の失敗談

これまでいろんな人に憧れ、真似をしてきた。

あるときはダウンタウンの松ちゃんで、ガキ使のフリートークからフレーズをいただいては披露し、

またあるときはみうらじゅんさんになりたくて自虐ネタばかりをまき散らし、

また別のときにはとある無口なミュージシャンを気取り、己の中に調子者の中二男子がいつまでも棲まっているのを隠匿してスカした態度を取ってみたりと(いや、そのミュージシャンがスカしているのではなく、マネした結果ということで)。

とにかく、ほかの誰かになろうとしてきた。

そしてこれらはことごとく失敗した。

なぜそうしてきたのか、と問われれば、自分が何者であるかきちんと理解しようとせず、理想の誰かを上塗りすることで世を渡っていこうとしたという、愚なる行為に他ならない。

つまり、偽りの自己を相手に印象づけようとする、欺瞞ぎまんの人生を送ってきたわけである。


そしてあるとき、初対面の人にそれを喝破された。

その日、私はみうらじゅんさんの隠れ蓑をまとい、みうらさん風の口調で、おもしろ話をしようとしていた。酒宴の席だった。
酔いも回り、宴も終わろうとするとき、その人は私を評して言った。


「面白いことを言おうとしてるけど、いまいちうまく言えてない」


私は、裸の自分が見つかったというよりは、裸の自分を見つからないように隠れ蓑を着ていたということを見つかった気がして、とても恥ずかしくなった。

そのときの私の言動は、きっとぎこちなかったに違いない。
自然な自分ではないのだから。

そのときの自分に会いに行けるなら
「お前が持ってないものでお前を飾ろうとするな。
もっと自然で居なさい」と言いたい。

人はなぜ自分を飾るのか?
ここでは、「背伸びして自分以上に見せたいから」という心理を一応の答えとして、
では、なぜそれが相手にぎこちなく伝わるのか、人まねして飾るよりなぜ自然体のほうがよいのか、
を考えてみたい。



ぎこちなく伝わるシステムを楽器の演奏になぞらえてみる

私は少々ギターの演奏をたしなむのだが、
自分を飾ろうという心理は、楽器の演奏というフィルターを通すと如実に露呈してしまう。

すなわち、
実力以上に上手に見せようとして、むりやり難しいフレーズを弾いたとしても、かえって余裕のなさが伝わってしまい、つたない印象になりがち、ということである。

そのつたなさは、力が入りすぎて音色の悪さに表れたり、音符通りに弾けずにリズムの悪さにつながったり、指を動かすのに必死で強弱やニュアンスにまで気配りが届かなかったり、といろいろな形で顕現する。

60点の実力で無理に100点を目指すと、差分の40点が悪目立ちし、 逆に実力不足が目立つ結果となるのである。

そうではなく、自分が自信を持って弾ける難易度低めのフレーズを、音色や強弱に気を配りながら余裕ありげに弾いた方が、より自然な演奏になるものだ。

60点の実力なら60点が満点であり、はじめから60点を意識していれば、残りの40点は誰にも意識されることはない、と言える。

背伸びして100点取ろうとせず、60点の中で大いに暴れたほうがよい結果になるだろう。

つまりは、
60点でいいじゃん!
ってことである。

達人の言葉

ここで私が憧れて真似たものの失敗した、松ちゃんとみうらさんの発言をお借りしたいと思う。

少なくとも10年以上前、ソースは何か忘れたし、発言内容もおぼろげなのだが、松ちゃんがおよそ次のように語っておられた(記憶違いがあればご容赦願いたい)。

(自身がお笑い芸人として売れていった過程について)お笑いという山の頂上を目指して登るのではなく、はじめから山頂にいる事をみんなに気づいてもらう作業だった。
自分は変わっていない。周りに気づいてもらえた。 面白いということを見つけてもらった。

といった内容だった。

すなわち、
やつがれのような人の真似ばかりしている人間ではなく、松ちゃんのような多くの人に憧れられ真似されるような、つまり人に刺さることのできる人間になろうと志すならば、
自分に足りないものに焦点を当ててそれを埋めるよりも、自分が持っているものにまず自分が気付き、それを周り認めてもらうための作業が大事だ、という結論が導き出される。


もうひとかたの、みうらじゅんさんは常々、

”自分探しより自分なくし”

だとおっしゃっている。

自分自身でないものを消去法で消していって、最後の最後にに残ったものが裸の自分自身であると。否、本当は”自分”など無い、くうなのだ、と仏教概念に結びつけておられたかも知れない。
いずれにしろ我思うに、まぎれない自分自身で勝負し続けた結果、”みうらじゅん”というブランドが成り立っていったのであろう。

みうらさんは次のようなことも言っておられた。

自分と同じタイプの人が、雇ってほしい、とやって来る。
でもスタッフに来てもらうなら、自分にできないことをやってほしいので、自分と同じ人は自分だけで十分だ。
と。

みうらさんのようになりたくてドアを叩いたところでみうらさんにはなれない、よしんばなれたとして”ミニみうら”がせいぜいであるとしたならば、己のアイデンティティはどこに行ってしまうのだらうか。

それは面白い人生には思えない。

人間国宝の至言

2020年にお亡くなりになった、講談師で人間国宝の一龍斎貞水さんの本を最近読んだ。

その中の至言を引用したい。

たとえば、前座のくせに名人のようなしゃべり方をする。あるいは、無理矢理に今風のしゃべり方をしようとする。そういう講談師が高座に出てくると、途端に場がしらけるのが分かります。

だから我々は、まず「『らしく』しなさい。『ぶる』んじゃないよ」と、必ず言うんです。

『心を揺さぶる語り方』 一龍斎貞水著 NHK出版

まさに、飾らず、真似せず、自然体を心がけろということではないか。

たとえば、林家三平師匠の、
「どうもすいません」
というギャグを誰が言っても受けるかといったら、そうじゃないですよね。

ユーモアというのは、人柄に属するものなんです。

その人の「人間」から自然と出ているときに、初めて聞いている方は心おきなく笑える。

無理をしちゃいけません。

『心を揺さぶる語り方』 一龍斎貞水著 NHK出版


この本は、『心を揺さぶる語り方』という題名の通り、話し方についての本である。

しかしここに書かれていることは、あらゆる表現行為に共通の、忘れがちであるが忘れてはならない基本的な考え方ではないだろうか。


まとめ

成功者のやり方をそっくり真似して手っ取り早く成功!
という合理主義が近頃は主流なのだろうか?

世間の風潮はいざ知らず、
私としては、オリジナリティあふれる、真似ではなく、飾らない、自然体の在り方こそが、人の心を捉えるのではないかと考える。

だから、そのままの自分の価値を見直そうぜ。
自分ではしょぼい、おかしい、変だ、と思っているところに価値があるかもよ。
人まねしてウケるよりも、自然体でスベった方がいいぜ!

と過去の自分にアドバイスしてこの稿を終えよう。



(了)