服を着ることの意味を、深くつきつめて考えてみないかい?
超絶ダサかった自分
生来の田舎者である私は、服装のセンスを持ち合わせない。
思春期にはそれなりに色気づきはした。
とはいえ、都会的なファッションを取り入れたり、過度に目立ったりすることは、80年代の地方の高校生にとっては危険をはらんでいた。
当時創刊されたメンズノンノ誌に載っているようなファッションは、我々超絶ダサい田舎高校生には縁の無い、遠い国の話に思えた。
事実、同じクラスでメンズノンノの思想を取り入れていた希有な存在だったT君は、ほかの同級生に散々揶揄されていたものだ。
また田舎では、悪目立ちすることでヤンキー兄ちゃんに絡まれ、心身に危険を及ぼす可能性が高まるという、中高生にとっては切実な問題もあった。
ダサさと色気の狭間に揺れ動いていた私は大学生になり、上京した。
誰が見ても超絶ダサい格好で。
1989年のことだ。
さずがに自分が超絶ダサいことは、上京してから1〜2カ月で気づいた。
よくあんな服装でバブル期の東京を歩いていたものだ、と今でも恥ずかしくなる。
そこから軌道修正し、最寄り駅の前にあった西友で(笑)服を買い、かろうじて恥ずかしくない程度になった。否、今考えると噴飯物なのだが、自分ではそこそこおしゃれになったつもりでいた。
しかし同じ大学内に跋扈する、附属高校から上がってきた東京生まれ東京育ちの生粋の都会っ子の、なにか違う世界の住人のような、上流階級の貴族的な気品のようなものに圧倒され、私は平静を装いながらも重いコンプレックスを植え付けられたものだ。
落合正勝氏の連載に熱中する
時は流れ、あれは90年代であったか、2000年代の初頭であったか記憶は定かではないのだが、
実家で購読していた中日新聞のサンデー版に、とある連載が始まった。
服飾ジャーナリストで高名な、故・落合正勝氏による、男の服装についての連載だった。
この連載に私は熱中した。
主にスーツスタイルについての歴史やルールに関する内容であったが、そこには私が全く知らなかった世界があり、目からうろこの連続だった。
元来自分の確たる軸がなく、移ろいやすい気質の私は、よりどころとして歴史や伝統に依拠する傾向がある。
この場合もその気質が発揮され、毎週日曜のその連載を読むことで、男性の服飾の成り立ちや約束ごと、そして哲学を、貪るように吸収していった。
記事通りに実践するには当時の私は経済力がなさ過ぎたが、いつかは書いてあるとおりの服装をしてみたい!という野望だけは胸に刻まれた。
服を着ることの意味をつきつめて考えた
昨今、イージーな服装が主流のようだ。
スーツは敬遠されているらしい。
高名なカリスマ経営者がシンプルな服装でプレゼンをしている。
私といえば、勤務時代はスーツを作業服のように、すり切れるまで、それこそズボンのお尻の縫い目が真っ二つに破れるまで着続けていた。
それはそれでしかたなかった。
しかし独立してからは服装が自由に選べるようになった。
同時に、自由とは責任を伴うものだ。
その責任とは、
服装、つまり外面は、内面を表すものだという思想、
服装は己が何者であるかを語る「自己紹介機能」を持つこと、
そして、身だしなみは自分よりも他人のためにすべきもの、ということだ。
自分の好きなとおり何でも自由に、というわけにはいかない。
これらのことは落合正勝氏や、高村是州さんの著書でより深く学んだ。
そこには何より哲学があった。
歴史と役割と愉しさ
上述のように、服装について歴史と役割を少しつきつめてみると、探究心が生まれ、より愉しくなる。
歴史を学ぶこととはすなわち型を学ぶことであり、型を学ぶことで逆に”型からの逸脱”が上手になるというのは、守・破・離という言葉に端的に言い表されているだろう。
そしてまた、服装の役割についても考えてみる。
単に自分が楽だから、とらわれたくないから、という思想ではなく、自分をどう表現したいのか、相手にどう印象づけたいのか、そしてなにより相手が不快にならないためにはどうすればよいのか、を考えるのが大人の嗜みはとはいえまいか。
その点、某・国内大手IT企業の楽〇のM木谷氏のプレゼン時の服装を見るにつけ、失望感と不快感を禁じ得ない。
ジョブズ氏よろしく黒のTシャツはいいが、贅肉をそぎ落としたジョブズ氏とは似ても似つかぬでっぷりとした体型に、黒のTシャツには乳首が透けている。
勘弁してくれ、誰もおじさんの乳首なんて見たくない。
このことは、見る人がどう思うかまで配慮されていない、その、
”配慮が足りない”
というM木谷氏の内面を表していることに他ならないと思う(だから私は、この会社のサービスは極力利用したくない)。
話を戻すと、
服装の歴史と役割を知り、自分なりに探求し、実践し、愉しもう、ということだ。
学びとメリハリ、そして楽しむこと
学ぶこと
私のような田舎者が都会っ子のセンスに多少なりとも追いつくには、学ぶことが必要だった。
それも、目先の流行を追うだけのうわべの学びではなく、もっと本質的な、ルーツや決まり事についての。
培われたセンスがなくとも、学ぶことでカバーできることもたくさんある。
メリハリ
私はかつてスーツを一切排し、ジャケット+トラウザーズのビジカジ路線を標榜していた。
今はスーツに回帰している。
より本質に戻りたいという気持ちかも知れない。
しかし、実をいえば普段は上から下までオールユニクロであり、
作業中心でほぼ外出しない日はこれで一日を過ごしている。
スーツを作業着としなくてもよくなったため、外出時に着るスーツにこだわれるようになった。
独立して服装が自由になった人は、もし
スーツ=制服
スーツ=サラリーマンの作業着
といった思想をお持ちであるならば、発想を転換してみてはどうだろう。
普段の作業着はチープでも、スーツにはこだわる。
そんなメリハリをつけることが可能なのは、独立開業した者の特権ではないか。
愉しむこと
元プレーボーイ誌編集長の島地勝彦さんはよく「知る悲しみ」について言及されている。
すなわち、良いものを知ることによって、それ以外のものでは満足できなくなってしまうということだ。
以下、かつてWEB上でなされた島地さんの「乗り移り人生相談」における、相談者への回答を引用したい。
本にせよ、スーツにせよ、シガーにせよ、酒にせよ、別に知らなくても生きてはいける。でも知ってしまえば、それなしの人生など耐えがたくなる。
乗り移り人生相談より
知れば知るほど良いものがわかるし、そのセクシーさに身もだえするようになる。〜何割増しかの愉しい人生が送れると思うね。
乗り移り人生相談より
オシャレなんて〜大いなる非効率だよ。だけど合理と効率だけでは文化は生まれない。無駄の中にこそ人生の真実や美がある〜
乗り移り人生相談より
人生には余裕と遊び心がなくてはいけない。素敵なファッションや持ち物で相手の興味や関心を引くというのは大人の大事な嗜みだよ。〜〜着ればいい、使えればいいというモノ選びは詰まらないと思うね。
乗り移り人生相談より
自分自身の話をすれば、服選びには失敗も多い。
しかし、
来年はこの色のスーツと、この柄のジャケットを入手しよう、
手持ちのあのパンツと組み合わせて、靴はこれで・・・
と想像するだけでも愉しめるものだ。
服装なんて真っ先に合理化すべきものだと思ってらっしゃる方も多いと思うがしかし、
服を着ることの意味を、一度深くつきつめて考えてみないかい?
きっと愉しいよ!
(了)